無題

時々、ふっと母校を訪れたくなる。

 

タテカン、全学連折田先生像、熊野レンジャー、etc・・・

数は減りこそすれ、今でも母校は変人の巣窟だ。

 

ある教師が「世の中に馴染めない人、変わった人が居てもいいと思います」という感想文を一瞥し「変わった人が”いてもいいと思います”じゃないんだよ。”いる”んだよ」と言い放ったtweetがバズっていた(原文tweetは検索しても出てこなかったので誰か教えてください)。

 

 本来「存在すること」は誰の許可を得る必要も無いものであるべき筈なのに我々はいつもそれを忘れる。

「変人」は誰の許可も得ない。

彼らに出会うと剥き出しの存在が迫ってくるようで安心する。

 

会社には年中アロハシャツの天才数学者も、全身オレンジ色のペイントを施し路上で宴会を開く者も居ない。入社する時点でそのような者は淘汰されてしまうからだ。

皆挨拶を欠かさず、非礼があれば咎め、遅刻はせず、勤勉に働いている。

「個性的な人材を求む!」という企業のメッセージはもはや虚しい。

 

変人になれなかった自分は明日も身だしなみを整え定刻通り会社に行き、きちんと挨拶をし、与えられた業務をこなす。

 

だから時々母校を訪れ、剥き出しの存在を一身に浴びたくなる。